序章 第四幕

 序章 第四幕


 あれからひと月。
 私と暘俊ようしゅんは学舎を一時休学し、女神討伐の準備に追われていた。
 術の稽古から一日が始まり、装備品の制作や確認に四苦八苦したと思えば、万一のためにと武術を叩きこまれる日々。それに加え奥様による晴れ着制作に翻弄され、一大事を前に早々に逃げ出したくなるところを互いに励まし合って何とかやり過ごし……。
 そうして今日、ようやくその日が来た。
「暘俊、本当に忘れ物はありませんね?」
「……母上、その話はもう三度目です。そう心配なさらずとも大丈夫ですよ。なぁ麗青れいしょう
「はい」
 少し呆れたように笑う暘俊に同調してにこりと微笑みかけるも、目の前の奥様は心配でたまらないと全身で訴えてくる。それと対照的に並んだ当主様は落ち着いた様子だが、彼の『色』もまた心の乱れを映したように陰っていた。
 お二人とも本当に優しい。……いや、もしかするとこれが普通なのかも。最愛の息子がこれから危険な任務に赴こうというのだから、心配するのが親というものなんだろう。それなら私は少しでも二人を安心させてあげないと。
「奥様、大丈夫です!私が必ず暘俊様をお守りします。ですからどうか、任務の成功を信じてお待ちくださいませ」
「麗青……。ありがとう。けれど、貴方もなのですよ」
「え?」
「わたくしが心配しているのは、貴方たち二人の無事なのです」
 奥様は私の瞳を覗き込んで言葉を継ぐ。
「二人が龍王様からご下命を賜ったことは、本当に喜ばしく誇らしいことです。それは誰が何と言おうと覆らぬ事実。けれどそれは、貴方たちが傷つくことを是とすることではないのです」
 返す言葉に詰まっていると、奥様の横から優しい声が降ってくる。
「麗青。お前はまだ子供だ。お前に何が見えていても、何を感じていてもそれは変わらん。そう肩肘を張らず生きなさい。私たちはただ純粋に、お前と暘俊の無事を祈っている」
 穏やかに諭す奥様と当主様の言葉に、それまで固く守り続けてきた一線が、少しだけ滲む感覚がした。

「皆さま、そろそろ」

 会話がひと段落したところで、背後からそっと声がかかった。振り返れば、水門の手前に大きく黒い狐が佇んでいる。
「此度は神山へ続く結界の門前へ、水門を繋いでおります。あまり長く繋いでおけるものでもございませぬ故……」
「そう、ですね。お待たせして申し訳ありません。……そういうことだから、そろそろ行こうか。麗青」
 差し出された手を握る。その手は少しだけ震えていた。
「それでは、父上。母上。――行ってまいります」
 大きくうなずいた二人に背を向けて、私たちは水門へ足を踏み出した。

 *

 二人手を繋いで、慣れない山道を一歩一歩進んでいく。
 水門と結界の門を潜り抜けたその向こう、神山と呼ばれる禁足地を登り始めてどれくらい経っただろうか。ただでさえお互い初めての登山だというのに、足は緊張で強張ってなかなか進んでくれない。そんな状況に焦れたのか、単に弾む息を整えるためか。隣を歩く暘俊が大きく息を吐き立ち止まった。
「はー……ははっ。これは、ちょっと想像していなかったなぁ。まさか、目的地が山のどこにあるのかわからないとは」
 乱れる息を整えながら、愚痴めいた言葉に笑みがこぼれた。
「本当に!てっきり結界を通り抜けたらすぐ、くだんの女神様とご対面かと思っていたのに」
「まぁでも、『神山』だからな。考えてみれば山登りになるのは当然だったかもしれない。わずかでも体力を鍛えておいてよかったよ。……お前も水、飲む?」
「うん。ありがとう」
 受け取った水筒を仰ぎながら、横目で暘俊を窺う。彼はなんだか興奮したような、感動したような顔で眼前の山を眺めていた。
 思い返せば、龍王様から勅命を頂いたあの日から彼はことあるごとにこの霊山を見つめていたように思う。私はあの日からずっと不安や恐怖と戦っているのに、暘俊の色はまるで陰りを見せず、その視線は憧れを映すように輝いていた。さすがに今もそのままとはいかないけれど、それでも彼の色は美しいままで。
「……俊は、怖くない?」
「まさか。そりゃぁ怖いし、不安だよ。俺だってただの人間だからな。まともな戦いになればまず勝ち目はない任務だ」
「でも、なんだかずっと楽しそうだよ?私はこの山が怖くて仕方ないのに、俊はそうじゃないみたい」
「それは……まぁ、そうかもしれない。俺は、お前と違ってそれほど目が良くないからな。神山を見られる機会なんて年に数度、特別調子のいい日にぼんやりと見える程度だったんだ」
「そうなの?」
「そうなんだよ。それでも見えるだけましな方だ。一生見えない人間の方が多いからな。……でも、それが龍王様から勅命を頂いた日以降、ずっと綺麗に見えている。それどころかこうして麓に立っているんだ。正直今でも夢なんじゃないかと思うよ。まるで、自分がすごい人間になったみたいでさ」
 照れ笑いを浮かべる暘俊を見て、ここひと月の疑問が綺麗に消化された。ここで言う『視力』は、単純な物を見る力ではなく、見えないものを視る能力のことだろう。確かに一般的に『目』は良いほどいいとされるし、視力を測るために神山を用いることがある。神山には強力な封印と結界が施されているために、神であっても見えない者がいるほどなのだ。神山を綺麗に捉えられるほど目の良い者は多くの神と相性が良く、神士官じんしかんとして非常に優遇されるという噂もある。
 そんな一般認識の中、暘俊は護家ごけという大家の長子でありながら視力はそこそこである。それ自体はさして大きな問題ではないけれど、元々、『混血』である暘俊の立場は人間主義に属する護家においてあまりよくはない。当主様も奥様も彼を深く愛しているけれど、護家という家柄が、さらには周囲の者たちが、彼を排そうとしているのは事実だった。きっとこれまでに、暘俊のそこそこな視力が彼を愛する者たちにとって不利に働いたことがあったのだろう。
 (そんな状況で、特別目の良い私が養子になったことに奥様が不安を覚えるのは当然だよなぁ……)
 誰が悪いわけでもないのだけれど、それでも何となく気分が沈む。私の目は、どこに行っても厄介者だ。
しょう?どうした?」
「あ、ううん。何でもない」
 暗く落ちかけた気持ちを引き上げて、引き締める。今はそんなことを考えて憂鬱になってる場合じゃないんだから。

「そういえば……ここに来てから、なんだか変な感じがしない?違和感、というか」
「変?俺は特に感じないが……どんな違和感なんだ?」
「なんていうか……うーん」
 どうにも言葉にならない感覚に眉間をぐりぐりと押してみる。結界を抜けてからなんだかおかしい感じがずっとしているんだけれど……。
「……あ、そうか。あのね、聖霊が変」
「聖霊?」
「ここって龍王様が張った結界の内部でしょ?」
「あぁ。学舎でもそう習ったし、実際この規模の結界を構築できるのは龍王様くらいのものだろう」
「うん、私もそう思う。でもそれにしては、水聖すいせいの数が少ない気がするの」
 私の言葉を測るように考え込む暘俊に、一つ一つ解説していく。
 龍王様は神霊で、元々は水の聖霊だった方。これは皆が知っている事実だ。そんな龍王様だから当然同族であった水聖にとても好かれていて、龍宮のある都には多くの水聖が集っている。その影響か都は湿度が若干高めだ。だというのに。
「……なるほど。確かに、ここは都に比べて随分乾燥しているように感じるな」
「でしょ?龍王様が張った結界の中なのに、変じゃない?それに、水聖だけじゃなくて……あのね、天郷てんきょうはどこも水聖の次に風聖ふうせいが多いの。多分、歴様の影響だと思うんだけれど……ここは風聖の気配も少なく感じる」
 歴様は、『天司あまつかさ』という天郷の天候を操作する大切なお役目を担う神だ。護家と双璧を成す名家である秌家しゅうけ家神かしんでもあるから、私も知識として知ってはいる。彼も元は強力な風の聖霊で、お役目の性質上天郷全土にお力が及ぶから、きっとその影響で全体的に風聖が多いんだろう。
「つまり、この場所は聖霊の気配が薄い、ということか?」
「そうなるね」
「うーん……。それは、確かにおかしい、かも。天郷は人界に比べて聖霊が多いというのが通説だ。俺は常に聖霊を知覚しているわけじゃないから気づかなかったけれど、それでも違和感を感じるほどとなると少し妙だな」
 二人で頭を悩ませてみるも、情報が少なすぎて理解が進まない。考えれば考えるほど沼に嵌まる感じがするし、ちらりと横目に暘俊を見れば、先程より少しだけ色が陰っているようにも感じた。
 これは良くない。
「まぁ、考えてもわからないものはわからないし……とりあえず先に進もっか?」
「そうだな。もしかすると、この異常が今回の勅命に関わるものかもしれないし」
 顔を見合わせ一つ頷くと、私たちはどちらからともなく手を繋いで歩き出す。手を繋ぐ必要はないけれど、そうしていると不思議と不安な気持ちがまぎれる気がした。

 それからしばらく山道を登り続けて。再び息が切れてきたころ、突然森が途切れた。目の前には不自然なほどに開けた土地と、明らかに人為的な手が加えられた扉がそびえている。それは見上げるほどに高く、二人で手を広げても両端に届かないほど巨大なもので。
「……これ、だな。目的地は」
 何の説明がなくともそう納得してしまうほどに、異質なものだった。
 その壮大さに圧倒される暘俊を傍目に、私は直感的に感じる。

 (あぁ、これは、ダメなやつだ)
 
 どうしてそう思ったんだろう。わからない。この扉があまりにも規格外だから?気圧されて、弱気になってるの?
 わからない。わからないけれど、どうしてかはっきりとわかることがある。まだ姿を見てもいない、神気すら感じないその存在を、何故だか私ははっきりと知覚している。
 この中にいるモノは、龍王様より格上の神だ。
「――っ」
 目が痛い。頭も痛い。耳鳴りがして、なのに見える景色はどんどん鮮明になる。怖くて痛くてすぐにでも目を逸らしてしまいたいのに、何故か私の目はこの扉――さらにはその向こうの何かに釘付けになって動かなかった。
 まるで私が私じゃないみたいにいろんな思考が雪崩れ込んでくる。どうしよう。どうして?どうして龍王様は私たちをここに向かわせたんだっけ。

 「お、おいしょう?!どうした、顔が青いぞ!」

 ふらつく私を支えて、暘俊が心配そうに私を覗き込む。
 視界に広がる彼の優しい色に、痛みが引いていく感じがした。
「……ごめん、もう大丈夫。ありがとう、俊」
「そうか?……本番前だし、お誂え向きに地面も平らだし、少し休もうか」
 丁度いい木陰に腰を下ろした彼の隣に、私も座り込む。途端に訪れる静寂は、私たちの心を映しているようで。
「……ここは、鳥も獣もいないんだな。見る限り虫すらいないようだし、やっぱり普通の土地じゃないんだろう」
 その言葉に目を閉じて耳を澄ませば、確かに風にそよぐ草木の葉音しか聞こえてこない。それでもさわさわと囁く風は、暴走する私の頭を落ち着かせてくれた。
 さっき考えたことは、暘俊には話さない方がいいだろう。話しても困惑させるだけだろうし、第一……『龍王様より格上の神』の存在なんて、暘俊に、ひいては天郷にとって害にしかなり得ないもの。こんな大事を前に、彼を怖がらせたくはなかった。
 ……あぁ、でも。
(このどうしようもない不安を搔き消せるものが欲しいなぁ)
 
「落ち着いたか、青」
「うん。……ねえ、俊。何か、余分に持っているものは無い?なんでもいいの」
「余分に?うーん。……あ」
 何かを思い出したように懐を探ると、彼は一本の紐を取り出した。
「髪紐なら。この任務が決まったときに新調したから、前に使っていたものだけど……これでいいか?」
 差し出されたそれは、濃い藍色の紐だった。使い古されたそれを受け取れば、何となく暘俊の気配を感じるような気がして。
「もちろん!じゃあ、少しの間借りるね。きっと返すから」
「馬鹿、必ず返せよ。……立てるか」
 頷いて、差し出された手を取る。
 私はここで終わるかもしれない。でも、暘俊だけは生きて帰すんだ。優しい両親が待ってるんだから。

 共に並んで、不思議なほどに軽い扉を押開く。一歩ずつ、慎重に、暗闇の中へ進んで。
 
「――なっ?!しょう?!しょう!!!!」
 
 突然床が消えたような浮遊感に悲鳴すら凍り付き、咄嗟に強く目をつぶる。

 少しして、風の音に恐る恐る瞼を持ち上げた私の視界に移ったものは。

 「――え……?」

 ――真っ赤な夕焼けと、真っ赤な血だまりと、血を吐いて崩れ落ちる彼の姿だった。